2015-06-17 20:55

歴代憲法解釈の重み(笑)


権利は有しているが行使は出来ない。これが我が国の自衛権に係る憲法解釈だ。常識的に考えて、行使が許されていない権利を「有している」とは言わない。「君には投票する権利がある、でも投票することは許さない」と言われたら、誰だって納得しないだろう。

何故この様な不可解な解釈になったか、言うまでも無く憲法9条があるからだ。歴代内閣は、次のロジックで憲法解釈を説明してき
た。

①我が国の存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを9条は禁じていない。
②しかし、その措置は必要最小限の範囲にとどまるべきだ。
③従って、他国に加えられた武力攻撃を阻止する集団的自衛権の行使は許されない。


これが、安保法案に反対するサヨク共が安倍総理ら改憲派に堅守を求める「歴代内閣の憲法解釈」である。しかし、ここで根本的な疑問が生じる。どうして、歴代の憲法解釈だけを遵守せねばならないのか、ということだ。

従前の解釈も今回の解釈も、内閣の憲法解釈という店で変わらない。過去の内閣の解釈は重く、安倍内閣の解釈は軽いのか。過去の内閣の解釈は正しく、安倍内閣の解釈は正しくないのか。だとすれば、それは如何なる理由によるものか。

安倍自民の解釈改憲について、反対派は「国民的議論をするべき」等と言う。重要なことだから、広く国民の理解を深めるべきだと。しかし、歴代内閣が憲法解釈を出したとき、「国民的議論」なんてものは存在しなかった。

日本が独立国家として当然所持する自衛権について、これを死守したい常識人の与党と、全ての戦力を放棄させたい野党やマスコミ等の売国連合がぶつかり合った。歴代内閣の憲法解釈は、その結果生み出された玉虫色の妥協案だ。

とてもじゃないが、ありがたがるほどの重みは感じない。だいたい、「権利は有しているが行使は出来ない」、なんて詐欺同然の詭弁を弄する時点で、歴代内閣の憲法解釈には誤りや欠陥があると考察するのが自然だろう。

上に書いた歴代内閣の三段論法を見ただけでも、議論の飛躍に首を傾げたくなる。まず、①→②からしておかしい。一見問題無いが、解釈に対する社会の解釈がおかしい。

①我が国の存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを9条は禁じていない。
②しかし、その措置は必要最小限の範囲にとどまるべきだ。


どうして「必要最低限にとどめるべき」なのか。国家存亡の危機なら全力で乗り越えねばなるまい。万が一にも失敗は許されず、「あらゆる手段」を講じねばならないはずだ。また、「必要最小限」という表現にも留意する必要がある。

サヨクは「最小限」をやたら重視するが、歴代解釈は「最小限」でなく「必要最小限」だ。危機の度合いに応じて、「必要」の範囲と「最小限」の度合いは変化する。これは、時の情勢によって自衛権の行使レベルが変化することを意味する。

ところが、サヨクは「必要最小限」を「自分達が納得するレベルでの最小限」と解釈した。内閣もそれを理解していたが、自衛権を所有することの確認と必要最小限という表現で、一定の成果を得たと満足し、サヨクとの論争を避け妥協に走った。

結果、「③従って、他国に加えられた武力攻撃を阻止する集団的自衛権の行使は許されない」の結論を容認した。当時、節々で「解釈は変化するもの」と確認していたことも妥協に繋がったろう。この解釈は、あくまで「とりあえずの解釈」であると。

これでもなお、歴代内閣の憲法解釈を崇め奉るべきと言えるだろうか。また、サヨク連中の言う歴代解釈の解釈が正しいと言えるのだろうか。とてもそうは思えない。歴代解釈は決して完全なものではないし、解釈に対する解釈にも議論が必要だ。

安保法案反対派は「欠陥法案を撤回せよ!」と叫ぶ。しかし、彼らが欠陥と判断するにあたり、大きな拠り所としているであろう苔むした歴代内閣の憲法解釈こそ、まさしく撤回修正すべき欠陥解釈であることを理解するべきだろう。




朝日:「違憲」の安保法制―廃案で出直すしかない
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
" 国会で審議されている法案の正当性がここまで揺らぐのは、異常な事態だ。
 安倍内閣が提出した安全保障関連法の一括改正案と「国際平和支援法案」は、憲法違反の疑いが極めて濃い。"
" その最終判断をするのは最高裁だとしても、憲法学者からの警鐘や、「この国会で成立させる必要はない」との国民の声を無視して審議を続けることは、「法治への反逆」というべき行為である。
 維新の党が対案を出すというが、与党との修正協議で正されるレベルの話ではない。いったん廃案とし、安保政策の議論は一からやり直すしかない。"
"■説明つかぬ合憲性
 そもそもの間違いの始まりは集団的自衛権の行使を認めた昨年7月1日の安倍内閣の閣議決定である。
 内閣が行使容認の根拠としたのは、集団的自衛権と憲法との関係を整理した1972年の政府見解だ。この見解は、59年の砂川事件最高裁判決の一部を取り込み、次のような構成をとっている。"
" ①わが国の存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを9条は禁じていない。
 ②しかし、その措置は必要最小限の範囲にとどまるべきだ。
 ③従って、他国に加えられた武力攻撃を阻止する集団的自衛権の行使は許されない。
 歴代内閣はこの考え方をもとに次のように説明してきた。"
" 日本は国際法上は集団的自衛権を持っているが、憲法上は集団的自衛権を行使できない。行使できるようにするためには、憲法の改正が必要だ――。
 ところが閣議決定は、①と②はそのままに、③の結論だけを必要最小限の集団的自衛権は行使できると改めた。"
" 前提となる理屈は同じなのに結論だけを百八十度ひっくり返す。政府はその理由を「安全保障環境の根本的な変容」と説明するが、環境が変われば黒を白にしてよいというのだろうか。この根本的な矛盾を、政府は説明できていない。
 入り口でのボタンの掛け違いが、まっとうな安全保障の議論を妨げている。"
"■安保政策が不安定に
 この閣議決定をもとに法案を成立させるのは、違憲の疑いをうやむやにして、立法府がお墨付きを与えるということだ。
 その結果として可能になるのが、これまでとは次元の異なる自衛隊の活動である。"
" 限定的とはいいながら、米国など他国への攻撃に自衛隊が反撃できるようになる。政府の判断次第で世界中で他国軍を後方支援できるようになる。弾薬を補給し、戦闘機に給油する。これらは軍事的には戦闘と表裏一体の兵站(へいたん)にほかならない。
 9条のもと、私たちが平和国家のあるべき姿として受け入れてきた「専守防衛の自衛隊」にここまでさせるのである。"
" リスクが高まらないわけがない。世界が日本に持っていたイメージも一変する。
 その是非を、国民はまだ問われてはいない。昨年の衆院選は、間違いなくアベノミクスが争点だった。このとき安倍氏に政権を委ねた有権者の中に、こんなことまで任せたと言う人はどれだけいるのか。"
" 首相が国民の安全を守るために必要だというのなら、9条改正を提起し、96条の手続きに従って、最後は国民投票で承認を得なければならない。目的がどんなに正しいとしても、この手続きを回避することは立憲主義に明らかに反する。
 数を頼みに国会を通しても、国民の理解と合意を得ていない「使えない法律」ができて、混乱を招くだけだ。"
" 将来、イラク戦争のような「間違った戦争」に米国から兵站の支援を求められた時、政府はどう対応するのか。
 住民への給水などかつて自衛隊が実施した復興支援とは訳が違う。派遣すれば国民は反発し、違憲訴訟も提起されるに違いない。断れば、日米同盟にヒビが入る。かえって安全保障体制は不安定になる。"
" 憲法学者から「違憲」との指摘を受けた後の対応を見ると、政権の憲法軽視は明らかだ。
 砂川事件で最高裁がとった「統治行為論」を盾に、「決めるのは我々だ」と言い募るのは、政治家の「責任」というより「おごり」だ。"
"■憲法の後ろ盾は国民
 先の衆院憲法審査会で、小林節慶大名誉教授がこんな警告を発している。
 「憲法は最高権力を縛るから、最高法という名で神棚に載ってしまう。逆に言えば後ろ盾は何もない。ただの紙切れになってしまう。だから、権力者が開き直った時にはどうするかという問題に常に直面する」"
" 権力者が開き直り、憲法をないがしろにしようとしているいまこそ、一人ひとりの主権者が憲法の後ろ盾となって、声を上げ続けるしかない。
 「憲法を勝手に変えるな」"







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